フォラヤン、母が明かす貧困からスターへの道
エドゥアルド・フォラヤンは、母国フィリピンでの恵まれない子ども時代を経て、強い決意と絶え間ない努力を手にした。
元ONEライト級世界王者のフォラヤンは両親から、自分の将来のために力を尽くすことでよりよい人生を手に入れ、両親のような苦しみを味わうことがないようにと、教えられて育った。
母親のメルセデスは子どもの頃、日々の食べ物にも困るほど貧しかったと振り返る。
「(フィリピン北部・コルディリェラ行政地域のマウンテン州という)生活が大変な場所で育った」とメルセデスは言う。
「(今住んでいる同行政地域の中心都市)バギオでは食事を作る時はコンロで簡単に料理できるが、昔はまず薪を集めないといけなかった。薪がなければ調理する手段はなかった」
フォラヤンの両親はどちらも読み書きができなかったため、子どもに与えられるものは多くはなかった。
「エドゥアルド(フォラヤン)が小さかったとき、シャツとズボンを数枚しか持っていなかった。当時の私たちは、ほとんど服を持っていなかった」
さらに、質の高い医療を受けられなかったことが、想像を絶する悲劇につながった。
メルセデスの最初の子どもは14ヶ月の時に発熱で死亡し、その後、はしかのために5歳と7歳の2人の子どもを失った。さらに2人の赤ちゃんが出産中に死亡した。
残った4人の子どもたちに、決して同じような経験を味合わせまいと、メルセデスは決心した。そして彼らがよりよい人生を手に入れられるよう、一生懸命に勉強するよう促した。
幸い、子ども達も母親の言うことをよく聞いた。子どもたちは真面目な生徒であり、そして日々の生活を助けるために必死に働いた。
「エデュアルドは学校に通っていた頃、私がボトルを集めに出かける時はいつも、追いかけて来た」
「手伝いたいって、何か運ぶのを助けたいって言うの。それがエドゥアルド。彼はとても真剣だった」
「学校でも諦めることを知らなかった。とても忍耐強かった。エドゥアルドはよく、学校の掃除の仕事を受けてきた。生活の足しにするためにね。私はボトルを拾い集めたり、洗濯サービスをする仕事だけで、母親として、してあげられることは限られていた。かわいそうな子だった」
フォラヤンは大人になっても両親を助けたいという気持ちを持ち続けた。そして格闘家として成功し十分な稼ぎを得られると、すぐに両親を支えるようになった。
「私たちはかつて、かろうじて家族が寝られるだけの小さな家に住んでいた。でも今は生活は良くなった」
「ベッド用のマットレスを買えるようになった。以前は、床の上にマットを敷いて寝るだけだった。本当に辛い生活だったから、とても感謝している。」
フォラヤンが成功への道を歩み始めたのは、コルディリェラ大学に入学し、犯罪学、そして教育学を学んだ時だ。
母親は、フォラヤンが大学で高等教育を受け、安定した仕事につながる学位を得られることを喜んでいた。だが、ウーシューを通じて入学のための奨学金を得たことについては、心配していたという。
「そのことについて聞いた時、そんなことができるのか心配した」
「『ウーシューが本当にできるの?』って尋ねた。できるというから、試合に出ることを許した」
だが心配する必要はなかった。東南アジア競技大会で3度、金メダルを獲得した後、フォラヤンは総合格闘技に転向すると、ONEライト級の初代世界王者に輝き、総合格闘技界トップに上り詰めた。
フォラヤンが2016年に、そのベルトをフィリピンに持ち帰った時、メルセデスは誇らしい気持ちでいっぱいだった。
「ベルトを勝ち取ったことがとてもうれしかった。他の人には想像もできないほど幸せだった」
フィリピンの名門格闘ジム「チーム・ラカイ」のスター、フォラヤンの活躍は今日も続いている。フィリピンで最も有名なアスリートに1人になり、両親の想像を遥かに超えるほどの成功を成し遂げた。
フォラヤンは今、妻と2人の子どもに安定した生活を与え、育ててくれた両親の生活も豊かにすることができた。母親は今でもフォラヤンが試合をする時は心配になるものの、両親はフォラヤンの成功を誰よりも喜んでいる。
「私はとても幸せだけど、エドゥアルドが戦う時は時々、心配して体が硬くなる。でも彼の勝利を願って祈り続けるだけ」
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