【1/10大会】健太、元野球少年がONEにデビューするまで
山田健太(健太)は、かつて人生で大きな選択に迫られた。仕事を辞めるか、それともプロの格闘家としての夢を諦めるか。
10年後数々の試合を経て、「普通の生活」を離れるというその時下した決断は正しかったと証明された。
健太は日本で、キックボクシングとムエタイ、シュートボクシングのトップの選手となり、格闘技の最高峰の舞台の一つ、ONEチャンピオンシップにまでたどり着いたからだ。
1月10日(金)、タイ・バンコクである「ONE: A NEW TOMORROW」でのセンマニー・サティアンムエタイ(タイ)とのバンタム級ムエタイマッチを前に、31歳の健太のこれまでを振り返る。
厳しかった野球部
健太は、山と温泉で有名な群馬県高崎市で両親と兄、姉に囲まれ幸せな子供時代を過ごした。
「家族で一番年下で、みんな自分のことを世話をしてくれたり甘やかしてくれた。兄にはいじめられたけれど」と、健太は笑って話す。
初めて取り組んだスポーツは野球だった。
「兄と姉がやっていたので野球を始めた。小学2年生から高校まで続けた」
「練習は厳しく、規律で縛られ、昔ながらのやり方だった。練習中は水も飲めなかった。罰もあった。全然楽しくなかった!唯一楽しかったのは、友達と一緒だったということ」
だが、厳しい練習のおかげで、強力な意思を培うことができた。その後、夢中になることにも必要な資質だ。
2000年代の始め、健太はK-1ワールドグランプリをテレビで見始めた時、格闘技に夢中になり、画面で見たヒーローたちのようになりたいと思った。
キックボクシングへ
高崎市ではそんな健太の情熱を叶える機会は限られていた。だが、格闘技をすると決めた健太は、どんな競技でも試してみると決心した。
「今は日本中にキックボクシングのジムはどこにでもあるが、当時はとても少なかった」
「ボクシングと極真空手を両方試してみた。けれども顔面への打撃は、ボクシングでしかできなかったし、キックもやってみたかった」
「格闘技人生はボクシングでスタートしたが、K−1が好きだったkら、キックボクシングをしたかった。ボクシングを4、5ヶ月やった後、キックボクシングのジムが近くにオープンした」
嫌という程のハードワークが要求されたが、健太は上達のためにはどんなきつい練習も厭わなかった。
また、K−1が重量級に加えて、新しい階級を導入し、軽量級のアスリートにも道が開かれた時には、やる気が出た。
「中学から高校に進学した時は、K−1MAXはとても人気があった」
「賞金も高かった。その時はキックボクサーとして身を立てたいと思っていた。自分ならできるかも?と思った」
人生を変えた決断
両親の勧めで健太は大学に進学。獨協大学経済学部を卒業し、不動産業で「普通」の会社員生活を始めた。
仕事と格闘技を両立させようとしたが、どちらも完全燃焼は不可能な状況だった。
「両方とも中途半端だった。大学で4年過ごしたが、どっちの道に進むか決めかねていた」
「例えば、試合に負けたら十分に練習をしていなかったと思って、言い訳をする。仕事でも完全に集中していなかった」
「トレーニングも仕事もうまくいっていなかった。だからリスクをとって仕事をやめてフルタイムでトレーニングをするという生活を始めた。2014年のことだった」
大学在学時から輝かしい戦績を収めていたが、フルタイムの格闘家になるという決断は、健太を別の次元に導いた。
世界王者を目指し
世界ボクシング評議会(WBC)ムエタイ日本チャンピオン、Krush -70kgチャンピオンのタイトル、ニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)の2階級タイトルに、通算50勝の戦績で、健太は日本で最も成功したアスリートの1人となり、ONEスーパーシリーズに参戦した。
ONEと契約した直後、昨年3月に息子が生まれた。
「父親になったことで責任感を感じるようになった。もうすぐ自分が戦っているのをみてくれるだろうから、息子のために勝ちたい」
その直後、5月の「ONE: FOR HONOR」でデイヴィダス・ダニーラ(リトアニア)を相手にONE初勝利を挙げた。
「ファイターとして、世界クラスのアスリートに囲まれて、最強の選手を相手に戦って、100カ国以上で観戦してもらっているというのはいいモチベーションになっている」
「勝ち続けて世界チャンピオンになりたい。ONEは世界でも大きな団体だし、日本でも人気が出始めているから、ここで成功したい。今のところ、ONEの選手であることを楽しんでいる」
バンコク | 1月10日 (金) | ONE: A NEW TOMORROW| 公式アプリで生中継(無料)|日本公式Twitter|日本公式Instagram