【1/10大会】KOアーティスト同士の戦いに挑む高橋遼伍の軌跡
高橋遼伍が総合格闘技のキャリアで、将来の不確実性と向き合ったのはそう昔のことではない。だがもし1月10日(金)にタイ・バンコクで開かれる「ONE:A NEW TOMORROW」でタン・リーを倒すことができれば、総合格闘技で最大の栄誉に手が届くところまでたどり着けるだろう。
ONEチャンピオンシップに2019年に参戦し、デビュー戦で勝利を挙げて以来のONEでの試合になる。ノックアウト・アーティスト同士の対決を制する者が、ONEフェザー級世界王者のマーティン・ニューイェン(ベトナム/オーストラリア)の次の挑戦者になるかもしれない。
バンコクで待ち受ける運命の日を前に、30歳の高橋のこれまでを紹介する。
サッカー少年
高橋は兵庫・明石市で妹と弟と共に育った。
子どもの頃は放任主義で育ったが、両親と問題になるようなことはなかったという。
「そんなに怒られた記憶はない」
「でも自分はそれなりに気づくことができる人間だったから、他人の行動を見て『これはよくないな』と自分で考えることができた」
高橋はサッカーに夢中で、小学校から中学校を卒業するまでサッカーに打ち込んだ。だが負けん気が強く、後ろから悪質なファールを受けた後に相手に蹴り返すこともあった。
そして高校1年の時にケンカで停学になり、そのままサッカーを辞めた。だがその経験により、人生を変える新たな情熱を見つけることができたのだった。
「サッカーを続けるとよくないなと思った」
「サッカーは見て楽しむものにしようと思って、格闘技に入った」
格闘技での成功
16歳の時高橋は加古川市で格闘技ジム「パラエストラ」を見つけた。そして新しいスポーツに没頭し、自分の感情をコントロールすることを学んだ。
だがそこで終わりではなかった。生来の負けん気の強さで、すぐに総合格闘家として将来を考えるようになる。
2008年のアマチュア修斗西日本オープントーナメントで、3位に入賞するという快調な出だしを見せる。続いて2010年には、西日本アマチュア修斗選手権のライト級で優勝する。
この成功により2011年にプロとしてのキャリアをスタート。5勝1敗という戦績を挙げすぐに、日本で最も有望な若手選手の一人として評価されるようになった。
さらなる成功を夢見て2013年、総合格闘技ジム「KRAZY BEE」で日本格闘技の伝説的存在、山本“KID”徳郁に学ぶべく、東京に移った。そして2016年にはフェザー級で修斗環太平洋王者に輝く。
2017年が終わる頃には高橋は6連勝中だった。だがすぐに、キャリアの存続にかかわるほどの試練にぶち当たる。
ケガと葛藤
夢を追い続ける高橋はいつも、経済的に苦しかった。だがそれでも総合格闘技の世界でトップになるのだという決意は揺るがなかった。
だが2018年6月のトレーニング中、太ももを骨折する。3か月間入院し、4度の手術を要する大けがだった。しかも感染により1~2か月の間、点滴を毎日受け続けていたため、体重が10キロほど落ちた。
高橋はこれまでになく厳しい試練に直面した。
「ずっと葛藤していた」
「格闘技を辞めることも考えた。でも性格がポジティブだから。それに格闘技を辞めた自分が想像できなかった」
格闘技が生きる意味を与えてくれたのだと、高橋は言う。1対1の戦いが好きだし、エキサイティングなパフォーマンスをファンに披露したいと思っている。
「格闘技の楽しさは、普通の人が来て、通常では見ることができないものを見ることができるということ」
「ライオンと戦う剣闘士のような、古代のスポーツを見ている貴族のようなものだ」
試練を乗り越えて
ケガから回復した時、高橋はこれまで以上にやる気に満ちていた。そしてトレーニングの許可が出てわずか2週間後に、ONEでケアヌ・スッパと対戦するオファーを受けた。
ベテランのスッパを前にした試練は大きいものだった。だが高橋は恐れることなく、そのチャンスを生かすためにできる限りのことをした。
「準備に3週間しかなかったから、体の状態にだけ集中して取り組んだ」
「試合ではブランクのせいか、パンチもキックも見えなかった」
だが高橋は第2ラウンドでTKO勝ちを収める。そしてキャリア13勝のうちの9勝をノックアウトで挙げるという打撃のパワーを持って、世界最高クラスの選手と戦っていく道筋を開いた。
目標は世界タイトルへの挑戦。そのための唯一の方法は、勝ち続けることだ。
「2020年は全部の試合に勝つ。これは絶対にやるべきことだ。」
バンコク | 1月10日 (金) | ONE: A NEW TOMORROW| 公式アプリで生中継(無料)|日本公式Twitter|日本公式Instagram