格闘技のキャリア追求へ、中原由貴が果たした“約束”

Yoshiki Nakahara DC 4997

人生を賭けて自分が何をしたいのか、答えを見つけられない人は多いだろう。だが中原由貴はいつも、自分は総合格闘家になりたいのだと分かっていた。

伝説的な格闘家の桜井“マッハ”速人と故山本“KID”徳郁に触発され、中原は世界チャンピオンになることを夢見て、格闘家への道のりを歩み始めた。

27歳の中原は今、ONEチャンピオンシップの強豪ぞろいのフェザー級を舞台に戦っており、これまでになくトップに近づいている。だが振り返れば、そのキャリアが危機に瀕したこともあった。

この記事では期待の新星、中原のこれまでを紹介する。

柔道への情熱

総合格闘家、中原由貴がテイクダウンに行く

広島で生まれ育った中原は、家族の中では唯一のアスリートだった。両親や妹はスポーツをしていなかったが、中原は体を動かすことが大好きだった。

運動好きの中原は、小学生の頃には野球やバスケットボールを試し、中学生になる少し前に、柔道を始めることになった。

中原から強く誘って一緒に野球を始めた幼馴染が、今度は一緒に柔道をやろうと中原を説得したのだ。

型にはめれば体格の大きい相手でもきれいに投げ飛ばすことができる、柔道の技術に中原は惹かれた。

中原は柔道の才能を磨き、推薦を獲得して名門高校に入学を果たす。

大ケガから新たな情熱に

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高校で調子に乗りかけたちょうどその時、柔道で上を目指すという中原の目標は思いがけず崩れた。

高校1年生の終わり、3年生が卒部して新チームのメンバーに選ばれた最初の試合で、前十字靭帯の完全断裂という、選手生命が危ぶまれるほどの大けがをしたのだ。「試合に出て思い切り柔道ができるようになるまで1年前後かかる」と、手術前に医者に言われた時、柔道に対するモチベーションは途切れた。

半年ほどたって徐々に練習は始められるようになったものの、同級生に置いて行かれるような焦りを感じた。柔道の推薦で入った高校で一時は柔道ができなくなり、学校を辞めたくなるほどの落ち込みようだった。

もともと中学生の時に、修斗とK-1の伝説、山本“KID”が地方の総合格闘技で圧倒的な活躍を見せているのを見て、戦うことに興味を持っていた中原は、ケガを期に再び格闘技に情熱を見出した。

「最初は落ち込んだが、格闘技は好きで見ていて、『やっぱりやりたい、やろう!』と気持ちにまた火が付いた。(将来)格闘技をやるために、今はそのために柔道で生かせることを磨こうと、在学中はモチベーションを切り替えた」

こうして格闘家というキャリアを志した中原だが、道のりは厳しものだとわかっていた。ケガからの回復だけでも相当な試練に立ち向かうことになる。だが中原はその逆境をプラスの力に変え、人生における貴重な教訓を学んだ。

「グッと堪えるとか、プラスに考えることが大事だと思う。当時僕は、なかなかプラスに捉えることができなかったが、あのケガがなかったら、ONEに出て華やかな舞台で試合ができるなど、特別な経験ができなかった」

「何かの試練だと思って、投げ出さないで、自分なりに意義付けをして、とにかくプラスに捉えることにトライしてもらいたい」

東京へ移って

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中原はケガから回復した後、総合格闘技の夢を実現するためにと、モチベーションを高めた。

高校3年生の夏に、格闘技ジム「パラエストラ広島」に入門。パラエストラは国内に広いネットワークを持ち、最高クラスの柔術選手を生み出してきたことでも有名なジムだ。既に総合格闘技を視野に入れていた中原は、初めから打撃も含めて全てを習い始めた。

さらに学校の休みを利用して東京に出向き、将来のトレーニング場所を探した。

中原が出会ったのは「マッハ道場」だ。通っていた「パラエストラ広島」に雰囲気が近かったことに惹かれる。さらに元修斗ミドル級世界王者の桜井“マッハ”速人や、DEEPの元2階級王者大塚隆史などの有名選手から、直接指導を受けるクラスがあることが決め手になった。

そして高校を卒業した18歳の中原は、大学で教員免許を取得するという安定した選択肢を捨て、東京に出て格闘家になるという夢を追求することにした。

母親は当初、中原の考えに反対したが、「自分の人生だから好きなようにさせてやりたい」という父親が母親を説得し、両親の了解を得ることができた。

「大学に行ったつもりで4年間を真剣に過ごすという約束をした。最初の4年間で結果が出なかったら、格闘技を止めるという約束だった」

約束を果たして

中原由貴がEmilio Urrutiaにジャブを決める

中原は上京すると、時間を無駄にすることなくすぐさまジムに向かった。

当初は建設業のアルバイトをしながら、マッハ道場の寮に滞在して日々の費用を賄った。

2012年11月、マッハ道場でのトレーニングからわずか2年で、中原は大きな一歩を踏み出す。総合格闘家としてデビューを果たすと、第1ラウンドでギロチンチョークを決めて上迫博仁にサブミッション勝ちしのだ。

中原はさらに全国の舞台で活躍を続け、両親との約束の期限も迫ろうとしていた。

そして2014年4月、空位となっていた「GLADIATOR」フェザー級王座を賭け、浅倉秀和との対戦を迎える。運命の夜、中原はライバルを倒し、念願のタイトルを獲得した。

「最初のタイトルを獲得したのが(両親と約束をした4年間の)4年目だった」

「すごい喜び、というよりは『まだ続けていいんだ』という安堵のほうが大きかった。特別な試合だった。本当に、人生の一番大きな転機の1つだった」

だがさらに大きな瞬間が中原を待っていた。

ONEでの飛躍

タイトル防衛に成功した後、中原はパンクラスに参戦した。

2015年後半に中原は、驚異的な7連勝を始める。このうちノックアウト勝ちが3試合だ。

日本の総合格闘技を舞台に成功を収めるうちに、中原は2019年2月、思いがけずONEで戦う機会を手にした。

中原は徳留一樹の代理として参戦オファーを受け、タイ・バンコクで開かれた「ONE:CLASH OF LEGENDS」で、のエミリオ・ウルティアと対戦。ウルティアを第3ラウンドTKOで下し、与えられたチャンスを見事に生かしたのだった。

短い準備期間での試合だったが、ONEに出場するチャンスは、中原にとっては長年の努力の証だった。

「あの時はうれしかった」

「自分を評価してくれる団体で戦いたいと思って、ONEを選ばせていただいた」

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ONE2戦目では、柔術の世界チャンピオンに何度も輝いたゲイリー・トノン(米国)に敗北を喫したもものの、中原は決してくじけなかった。逆境ならこれまでに何度も克服してきた。いつでもそれは同じだ。

中原は将来、自分の強みである打撃を、現フェザー級世界王者のマーティン・ニューイェン(ベトナム/オーストラリア)を相手に試してみたいと思っている。

「まずは前回の負けを取り返して、タイトルにからめるようにしっかり戦っていきたい。同時に、持ち味の打撃で毎回フィニッシュを狙いたいと思う」

「マーティン・ニューイェン選手と戦ってみたい。彼がチャンピオンでなくなったとしも、正面きって向かい合ってみたいという思いがある」

「僕は器用に戦えないし、彼もストライカーだから、打撃で戦う展開なるのではないか。僕は当てたら倒す自信はあるし、向こうもそういうタイプなので、絶対にどちらかが倒れると思う」

仮に中原が倒れることがあったとしても、これまでそうだったように、彼は必ず立ち上がる。

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